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ピアノコラム piano column

 

[審査委員長]
80歳現役のピアノ教師

コンクールの演奏全てが終わり、審査発表の時が来た。
自分の演奏が終わり、結果を待つ間のジリジリとした緊張感の中、その先生は、白地にオレンジ色の小花を散らしたスーツを着、背筋をピンと伸ばして舞台の上に現れた。

「皆さん、今日は良い演奏が出来ましたか?
これから審査発表をしますが、少しだけ私の話を聞いてください。」静かな声だった。

私がピアノを始めたのは小学校の教員をやっていた母親が『今日からピアノを習いなさい』と5歳の私を先生の所に連れて行ったからです。
当時はピアノを持っている人は少なく、ピアノが弾ける人は珍しかったので、 母は自分が出来ないピアノを上手に弾けるようにと子供に夢を描いていたのです。
大変高価なピアノを買ってくれ、つきっきりで練習させられました。
それなりの曲が弾けるようになると母は大変喜んでくれたので、私は母に褒められたい一心で練習しました。
そうしているうちに戦争が始まりました。
練習するのに音を出さないようにしなさい、と言われピアノに布団をかけて練習しました。
しばらくすると、今度はピアノの絃で鉄砲の弾をつくるため軍にピアノを提出しなくてはならなくなりました。
私の家にはピアノがなくなりました。
正直、私は『これで練習しなくていいや』と思ったのです。
すると母は、机をピアノの鍵盤と同じ様に、彫刻刀で削りピアノの鍵盤を作ったのです。
もちろん音は出ません。
鍵盤も動きません。
ペダルもありません。
私は正座をして練習するように言われ、毎日2時間以上、音の出ない机の鍵盤で音を想像しながら練習しました。
そんな時も母は練習につきっきりで、手の形が悪い、姿勢が悪い、指の動きが遅い、と言っては、私を叱ってばかりいました。なにせ、2時間正座での練習でしたから、足がしびれてモジモジするだけで足を叩くのです。
姿勢が悪いと背中を叩き、手の形が悪いと手を叩きました。褒められたことなどありませんでした。
音の出ない鍵盤を叩くだけの練習など意味がないと、母と喧嘩をした事も有ります。
母は、『戦争が終わったら、ピアノを弾く機会はきっと来る。それにお父さんが戦地から帰って来た時ピアノを聞きたがるわ。』と言い、結局練習は終戦まで毎日続きました。
練習を見てくれる先生も疎開をしていなくなってしまったので、ピアノが弾けない母が先生になり、ドミソ…と声に出して歌いながら練習しました。
戦後、私は音楽大学でピアノを勉強し、ピアノの先生になりました。
ピアノの先生に成ったのは、ピアノが好きだったからではありません。
結婚し子どもが二人生まれた頃、夫が病気で働けなくなり、病院代と生活費を稼ぐためにピアノ教師になったのです。
戦地から帰った父はすぐに病気で亡くなり、女手一つで育てた二人の息子はそれぞれ独立し家をでました。病気で10年寝たきりだった夫とあんなに厳しかった母の葬儀も終わり、親戚達も皆帰り、家には私だけ。
私は一人ぼっちになりました。
そんな時、私はピアノを弾きました。
涙が出ました。
ああ、ピアノを続けていて良かった…本当に、本当に心の底からそう思いました。

私は今から今日のピアノコンクールの審査発表をします。
入賞したとかしないとか、騒がないでください。
一生懸命やっている人の事を神様は見ているのですよ。
そしていつの日か皆さんに今日の賞以上に素晴らしいものをプレゼントしてくれます。

そして、入賞者の名前が呼ばれました。


長廻かおる

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