Iさんは音大在学中、目だたない学生だった。
「どんな曲が弾きたい？」
「べつに…、先生が決めて下さい…」
「作曲家は誰が好き？」
「特にありません…」
「はぁ？」
凄く音楽が好きで音大に進学した訳では無いらしい。
親に連れられて近所でピアノを習い、なんとなくレッスンは続き、他にやりたいモノが無かったため、周囲の勧めで音大に来た。
喜怒哀楽の少ないIさんはそれでもレッスンを休む事も無く、ちゃんと卒業した。

やがてIさんは地元の銀行に就職した。
音大を卒業しても彼女の様に音楽と関係無い仕事に就く人も最近は非常に多い。
「ピアノ忘れないでね。」
そう言って卒業して半年ほど過ぎた頃、電話があった。
「レッスンお願いします。」
え？正直少し驚いた。
音楽の仕事をしている訳では無い、コンサートの予定も無い。
弾きたい曲はありません、と言った彼女からレッスンの申込みをして来るなんて！
モチロン『大歓迎！』だ！

久しぶりに会ったIさんは少し大人びて見えたが、まるで昨日の続きの様にあたりまえにピアノを弾いた。
レッスンの後、思い切って尋ねてみた。
「音大で勉強して良かったと思う？」
「モチロンです。どうしてそんな事聞くのですか？
先生、私はあまり熱心な生徒ではありませんが、これからもずっとレッスンお願いします。」

彼女の瞳は静かに私を見つめている。
そうか…彼女はピアノが好きなんだ。
その後Iさんのレッスンは半年に１回、一年に１回、と続いている。

20年も…

長廻かおる